「全ての人々にとって住みやすく持続可能な将来を確保するための機会の窓が急速に閉じている(確信度が非常に高い)」。これは,気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が2023年3月20日に発表した第6次評価報告書統合報告書に関して,「政策決定者向け要約」の中に記述された一文である。さらに「この10年間に行う選択や実施する対策は,現在から数千年先まで影響を持つ(確信度が高い)」と同要約に記述されている。現在に至るまで地球温暖化対策として世界中で様々な施策が行われてきているが,さらに多くの対策を加速的に講じていかねばならない。地球温暖化対策としての温室効果ガス排出量削減を目指す中で,我が国を含め世界各国の政策動向の詳細は本文に譲るが,水素の需要が今後飛躍的に増加していくことは間違いない。化石資源に依存しない「グリーン水素」の製造を担う水電解技術は,ビジネスとしても今後大いに発展していくと期待される。以上のような状況の中で,水電解分野の全体像を俯瞰したいというニーズに対して,当該分野に特化した専門書が現状ではほとんど見当たらない。このような状況に鑑みて本書は,各種水電解技術の基本から最新の開発状況,さらに世界中の水素関連政策動向を1冊で俯瞰できる書籍を目指して企画された。
本書は,前半の「技術編」と後半の「政策・開発動向編」で構成されている。「技術編」ではまず「水電解の原理」にて,熱力学や電気化学の基本を踏まえて水電解技術の原理が解説されている。その後には「アルカリ水電解(AWE)」「プロトン交換膜形水電解(PEMWE)」「アニオン交換膜形水電解(AEMWE)」「高温水蒸気電解(HTSE)」の章が続いており,各種水電解技術の基本から技術開発の現状までを本書1冊で俯瞰できる内容となっている。後半の「政策・開発動向編」では,初めの「日本国内の動向」において,グリーン水素関連の国内政策動向全般およびNEDOプロジェクトでの技術開発動向を把握することができる。その後の章では海外の動向に視点を移し,水素に関連する国際組織の動向,そして「米国」「欧州」「中国」の動向について解説されている。今後の世界的なグリーン水素に関連する政策や技術動向を注視していくために,本書を活用して現状を理解することに役立てていただきたい。なお,本書での各種水電解方式の日本語表記に関して,各種燃料電池の方式がJISにおいて「形」を付ける表記になっていることを鑑み,本書の各章のタイトルでは「プロトン交換膜形水電解」「アニオン交換膜形水電解」のように「形」を付けている。ただし,現状では水電解に関しては「形」を付けるかどうかの統一基準がなく,本文の中で執筆者によっては「形」を付けない表記となっている。表記に揺れがあることをご容赦いただきたい。
本書が無事刊行できることになったのは,何よりもご協力いただいた全執筆者の皆様のおかげである。日々の忙しい業務の中で本書の執筆を受けてくださったすべての方々に心より感謝申し上げたい。なお,本書の監修については株式会社シーエムシー・リサーチの坂田直也氏から筆者に依頼があった。このような貴重な機会を筆者に下さった坂田氏に感謝申し上げる。
水電解技術の基本から現状までを俯瞰したい研究者・技術者だけでなく,今後の水素ビジネスを検討しているすべての方々に是非本書を手に取っていただきたい。水電解分野へ多くの人が様々な形で新たに参入し,当該分野がますます発展していくことに本書が役立てば幸いである。今後10年間でさらに発展していく水電解技術が,「すべての人々にとって住みやすく持続可能な将来」の実現に大きく寄与することを確信しつつ巻頭言としたい。
構成および内容
第Ⅰ編 技術編
第1章 水電解の原理 辻 悦司
1 はじめに
2 水の電気分解反応(水電解)
3 水電解に必要な熱力学的エネルギー
4 水電解に必要な電気化学的エネルギー
4.1 理論電解電圧と熱的平衡電圧
4.2 実際の電解電圧
4.3 効率
4.4 性能向上の指針
5 反応機構
5.1 水素発生反応機構
5.2 酸素発生反応
6 おわりに
第2章 アルカリ水電解
(AWE:Alkaline Water Electrolysis)
第1節 アルカリ水電解の基本,特徴 辻 悦司
1 はじめに
2 アルカリ水電解の歴史
3 特徴
4 コスト
5 おわりに
第2節 電極触媒
第1項 全般,金属酸化物系 辻 悦司
1 はじめに
2 カソード触媒
3 アノード触媒①:ペロブスカイト型複合酸化物
4 アノード触媒②:ブラウンミラーライト型複合酸化物
5 おわりに
第2項 NiSx/C3N4ナノワイヤー酸素発生触媒 八木政行
1 はじめに
2 NiSx/C3N4触媒の合成と構造
3 NiSx/C3N4触媒の酸素発生アノード特性
4 NiSx/C3N4酸素発生アノードを用いた水電解実証実験
Chapter3
Agfa’s ZIRFON UTP 220 separator for the production of green hydrogen
Nick Valckx,Hanne Verwaest,Elke Dom,Raymond Thuer,Ruben De Bruycker
1 ABSTRACT
2 THE ZIRFON SEPARATOR
1. Width needed by the market
2. 400% higher efficiency
3. Lower cost
4. Excellent gas purity
5. Dispersion preparation
6. Mechanical properties
7. Sustainable production
3 CONCLUSIONS
1. Unlocking the full potential of H2 thanks to cost reduction.
2. Sustainable production of green hydrogen
3. Sustainable production of ZIRFON
第4節 旭化成の水電解装置の現状と課題 内野陽介,藤田泰宏
1 はじめに
2 アルカリ水電解システムの要素技術開発
2.1 通電停止に伴う電力原単位上昇の抑制技術
2.2 変動運転に伴う圧力変動の抑制技術
3 アルカリ水電解システムの実証試験
3.1 大型電解枠実証試験
3.2 ALIGN-CCUS/TAKE-OFFプロジェクト
3.3 福島水素エネルギー研究フィールド
4 アルカリ水電解システムの技術課題と今後の展望
4.1 技術課題
4.2 今後の展望
5 おわりに
第3章 プロトン交換膜形水電解
(PEMWE:Proton Exchange Membrane Water Electrolysis)
第1節 PEM形水電解の基本,特徴 松澤幸一
1 はじめに
2 PEM形水電解の特徴と現状
3 今後のPEM形水電解
第2節 酸素発生触媒の高性能化に向けたIrナノ粒子連結触媒の開発 黒木秀記,山口猛央
1 はじめに
2 酸素発生反応用Irナノ粒子連結触媒の開発
3 まとめと今後の展望
第3節 フッ素系電解質膜 早部慎太朗,奥山 匠,角倉康介,西尾拓久央
1 はじめに
2 パーフルオロスルホン酸ポリマー
3 イオン交換容量が大きいポリマーを用いる事による膜性能の向上
4 PEM形水電解中の膜の劣化機構
5 電解質膜の更なる化学耐久性向上
6 おわりに
第4節 水電解装置の現状と課題
第1項 PEM水電解装置の現状 中尾末貴
1 はじめに
2 水素の利用
2.1 水素の用途
2.2 水素の供給方式
3 PEM水電解
3.1 PEM水電解の原理・特長
3.2 PEM水電解装置の概略構成と基本制御
4 PEM水電解装置の製品例と適用分野
第2項 PEM水電解MEAの現状と課題 吉永典裕,菅野義経,霜鳥宗一郎
1 はじめに
2 PEM水電解セルおよびMEAの構成
3 スパッタリング法による触媒層形成技術
4 スパッタリング法による電極作製方法および水電解効率の比較
5 粉末触媒との比較
6 耐久性評価
7 水素リーク抑制技術
8 スパッタ電極大型化技術
9 おわりに
第3項 高圧水電解技術の原理と特徴 針生栄次
1 はじめに
2 差圧式高圧水電解の原理
2.1 基本原理
2.2 技術的特徴
3 高圧水電解スタック
3.1 技術的課題
3.2 基本セル構成
3.2.1 耐圧,差圧保持構造
3.2.2 気密構造
3.3 電解性能評価
4 高圧水電解システム
4.1 製造される水素の特徴
4.2 基本システム構成
5 高圧水電解システムを適用した水素製造装置
6 おわりに
第4項
水素社会実現に向けた東レの取り組み─CO2フリーの水素社会構築を目指したP2Gシステム技術開発─ 橋本 勝,出原大輔
1 水素社会実現に向けた東レの取り組み
2 東レ独自の炭化水素系(HC)電解質膜
3 CO2フリーの水素社会構築を目指したP2Gシステム技術開発(東レ,山梨県,東京電力HDの3者共同研究)
3.1 米倉山太陽光発電所(電力貯蔵技術研究サイト)
3.2 Power to Gasの「やまなしモデル」
3.3 やまなしハイドロジェンカンパニー(YHC)
3.4 グリーンイノベーション基金事業
4 2050年カーボンニュートラルに向けて
第4章 アニオン交換膜形水電解
(AEMWE:Anion Exchange Membrane Water Electrolysis)
第1節 AEM形水電解の基本と特徴 伊藤 博
1 はじめに
2 AEM形水電解の原理と特徴
3 AEM形水電解セル構成部材と電解液供給方法
3.1 アニオン交換膜
3.2 水素発生電極(カソード)
3.3 酸素発生電極(アノード)
3.4 電解液供給方法
4 まとめ
第2節 電極触媒
第1項 アニオン交換膜形水電解アノード反応に用いる高性能電極触媒の設計論 菅原勇貴,山口猛央
1 はじめに
2 結晶の高次構造に着目した水電解アノード反応用コバルト─マンガン複合酸化物触媒の設計
2.1 アルカリ水電解用卑金属酸化物触媒の研究動向
2.2 コバルト─マンガン複合酸化物のアノード触媒活性に対する高次構造依存性の調査
2.3 層状コバルト─マンガン複合酸化物微粒子のグラフェン上での直接成長による高性能化
3 結晶構造に基づく鉄系複合酸化物型触媒の設計論の提案と実験・計算・データを活用した高性能触媒の開発
3.1 鉄系複合酸化物触媒の結晶構造と水電解アノード反応活性の間に眠る法則の発見
3.2 触媒作用のメカニズムの切り替えによる鉄系酸化物触媒の高性能化
4 おわりに
第2項 アニオン交換膜形水電解用アノード触媒の開発 柿沼克良,史 国玉
1 はじめに
2 NiCo触媒の結晶構造と微細構造
3 NiCo触媒の電子状態
4 NiCo触媒の電気化学的特性
5 おわりに
第3節 電解質膜
第1項 高耐久性アニオン伝導膜の開発とアニオン交換膜型水電解への展開 宮西将史,山口猛央
1 水電解を用いたグリーン水素の製造
2 水電解によるグリーン水素の製造手法とその特徴
3 アニオン伝導膜の化学耐久性
4 芳香族アニオン伝導膜のアルカリ劣化機構の解析
5 高耐久性エーテルフリー型芳香族アニオン伝導膜の開発
6 エーテルフリー型芳香族アニオン伝導膜を用いたアルカリ水電解セルの開発
7 まとめ
第2項 優れた耐アルカリ性をもつカチオン官能基の設計とこれに基づく高ロバスト性アニオン交換膜材料の設計・合成
冨田育義,一二三遼祐,宮田佳典
1 はじめに
2 カチオンの設計・合成
3 高分子化技術
4 成膜・評価
5 おわりに
第4節 水電解装置コスト 伊藤 博
1 はじめに
2 水電解システム仕様と前提条件
3 PEM形およびAEM形水電解システムコスト解析
3.1 セル・スタック製造コスト
3.1.1 Catalyst coated membrane (CCM)
3.1.2 Porous transport layer (PTL)
3.1.3 シール・フレーム
3.1.4 BPPおよび締結板
3.1.5 スタック組立
3.2 BOPコスト
3.3 設置・導入コスト
4 システムコスト試算結果
5 まとめ
第5章 高温水蒸気電解
( HTSE:High Temperature Steam Electrolysis)
第1節 高温水蒸気電解の基本,特徴 石原達己
1 はじめに
2 水蒸気電解の特徴
3 水蒸気電解セルの課題
4 おわりに
第2節
固体酸化物形電解セル(SOEC:Solid Oxide Electrolysis Cell)の基本,特徴,可逆型 石原達己
1 はじめに
2 酸化物形セルの構成材料
2.1 酸化物電解質
2.2 カソード触媒
2.3 アノード触媒
2.4 インターコネクター等
3 可逆型運転によるエネルギー貯蔵
4 おわりに
第3節
高温水蒸気電解システムの現状と課題 長田憲和
1 高温水蒸気電解の開発動向
2 高温水蒸気電解システムの課題
3 高温水蒸気電解システムの開発状況
第4節 プロトン伝導体を用いた水蒸気電解 松本広重,Leonard Kwati,Bhuvaneshwari Manivannan,Veeramani Vediyappan
1 はじめに
2 プロトン伝導性電解質
3 水蒸気電極
4 水素発生電極
5 水蒸気電解作動特性
第Ⅱ編 政策・開発動向編
第1章 日本国内の動向
第1節 グリーン水素に関する政策 西脇文男
1 はじめに
2 将来の水素需要とコスト見通し
2.1 将来の水素需要見通し
2.2 グリーン水素の製造コスト見通し
3 世界で進むグリーン水素の大規模プロジェクト
3.1 オーストラリア
3.2 チリ
3.3 UAE
4 日本のグリーン水素政策
4.1 再エネ余剰電力の活用
4.2 海外の低コストグリーン水素の輸入
4.3 水電解技術開発への支援政策
第2節 NEDOプロジェクト 石本祐樹
1 水電解に関連するNEDOプロジェクトの概要
2 代表的なプロジェクト
2.1 グリーンイノベーション基金
2.2 水素利用等先導研究開発事業
2.3 水素社会構築技術開発事業
3 まとめ
第2章 国際組織の動向 丸田昭輝
1 はじめに
2 IEAの2050年のネットゼロシナリオ
3 IRENAのGeopolitics of the Energy Transformation: The Hydrogen Factor
4 Breakthrough Agenda
5 Breakthrough EnergyのCatalyst Program
6 First Movers Coalition(FMC)
7 Hydrogen Councilの「Hydrogen for Net Zero」レポート
8 まとめ
第3章 米国の動向 原 大周
1 長期的戦略
2 日本との関係
3 主な水素関連研究開発プログラム
4 連邦政府による主な水素関連政策
5 今後に向けて
第4章 欧州における水素関連政策動向 若林節子
1 欧州における水素関連政策
1.1 グリーンディール政策
1.2 欧州クリーン水素戦略
1.3 ウクライナ侵攻を受け,加速化する再エネ導入拡大と水素の利用
2 水素の導入拡大に向けた論点
2.1 クリーン水素の定義
2.2 域外からの水素調達
2.3 欧州水素バックボーン
3 EUの戦略的自律に向けた取り組み
3.1 欧州クリーン水素アライアンス
3.2 欧州共通利益に適合する重要プロジェクト(IPCEI)
4 欧州クリーン水素パートナーシップ
4.1 HEAVENNプロジェクト
4.2 HYBRITプロジェクト
5 おわりに
第5章 中国の動向 山下恭平
1 水素に関する政策動向
1.1 中国の再生可能エネルギー
1.2 中国の水素エネルギー産業の発展に関する中長期計画
1.3 中国の燃料電池車と水素充填に関する奨励金政策
2 水電解の企業動向
2.1 中国の水電解企業