近年のデジタル社会では、大量の電子情報を遠隔で送受信することが可能になった、このことにより、物や人の実感が湧かないまま互いに繋がり合い、自由に情報をやり取りすることができる世の中になってきている。それに対して、人間の感覚すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚等は、究極のアナログ情報であるといえる。感覚受容器が受け取るこれらの刺激のアナログ情報は脳内で処理されるが、ほとんどの情報はアウトプットされることなしに各個人の脳内にとどめられ、その中のごく一部が感覚的な言葉で表現されるのみである。しかし、人間はこれらの感覚なしには生きているという実感を伴った生活を営むことはできない。逆に考えれば、もしも何らかの事情により電子情報が一切やり取りできなくなったとしても、五感を頼りに心身共に豊かな生活を送ることができるであろう。これは、人が生活していくうえで感覚がいかに重要であるかということを示している。
本書は、このようなアナログ情報である感覚の重要性を再認識することから出発し、工学的観点からこれを捉えようとするものである。今回は感覚の中でも特に触覚に重点を置いている。この理由は3つ挙げられる。まず、人の感覚の中で最も定義や数値化が困難な感覚であるため。次に、現在の情報通信技術においては視聴覚情報のやり取りが先行しており、それに続くものとして触覚情報のやり取りが期待されているため。最後に、人は日常の生活環境の中で、室内の温度、明るさ、音、食事、香りには配慮していても、手ざわりに気を配ることはあまりない。しかしこの触覚にこだわりを持つことで、より生活を豊かにすることができると考えられ、現在幅広い業界で注目されている分野であるためである。特に現代のストレス社会、超高齢社会では、五感のすべてに対して日常的に心地よい刺激を与えることが、快適な生活を送るうえで重要であると考えられる。デジタル情報とアナログ情報の混在した環境で心地よく、さらには楽しく生活するためにはどのような要素技術が必要かということに焦点を当て、“心地よさと意外性を生み出す技術”という副題とした。
第I編ではまず人間の持つ五感のメカニズムと、その中での各感覚の位置づけ、および快・不快との関係について取り上げた。第II編では、オノマトペや形容詞などの言葉で表される感覚の定量化の手法、さらには人の感覚をセンサーとして高度な計測を行う試みについて取り上げた。第III編では、感覚を人工的に作る、あるいは他の感覚で特定の感覚を代替する取り組みについて取り上げた。最後に第IV編では、様々な分野における、感覚に着目した材料や生活環境の設計について取り上げた。対象となる感覚や製品が多岐にわたり、それぞれの分野における感覚の評価や計測の方法が異なるため、ここではできる限り幅広い分野を網羅できるようにした。
本書のテーマである感覚重視型技術、すなわち感覚を計測・制御する技術は、例えば物理学のように汎用的な基礎理論や法則がまだ存在しない。すなわち、ある基礎的な理論や法則を見いだして、それをさまざま感覚や対象に応用できるようなればよいのであるが、現状ではそこまで至っていない。そのため総論となる第I~III編に対して、各論である第IV編に多くのページを割く形となっている。その分、実例が多く、具体的なヒントが多く得られる書籍となったが、本書を礎として、あらゆる感覚や対象を網羅する基本的な概念を作り上げたいと考えている。
また今回の構成は、大阪大学大学院工学研究科環境・エネルギー工学専攻博士前期課程の「福祉工学」の講義での学生のディスカッションを通じた感覚重視型技術の系統化が土台になっており、そこから触覚に焦点を当てた構成に練り直したものある。引き続きこのような議論を学生と継続することで、感覚とそれに関わる技術の系統化を進めていきたいと思っている。
最後に、本書の発行にあたりご多忙の中ご協力くださいました執筆者の先生方と、このような新しい概念の書籍を出版する貴重な機会をくださいましたCMC出版の皆様に心より感謝申し上げます。
目次
【第I編 感覚のメカニズム】
第1章 感覚の分類と触覚
1 はじめに
2 触覚、特殊感覚、一般感覚、体性感覚
2. 1 アリストテレスの五感と触覚
2. 2 Weber の触覚と一般感覚
2. 3 感覚点の研究に始まる皮膚受容器同定の試み
2. 4 体性感覚
3 体性感覚の生理学
3. 1 触圧覚の受容器
3. 2 温度受容器と痛覚受容器
3. 3 皮膚の無毛部と有毛部
3. 4 深部感覚
3. 5 深部受容器
3. 6 自己受容感覚、固有感覚
3. 7 運動感覚
3. 8 単一神経活動電位記録による皮膚受容器の同定
3. 9 体性感覚を伝える末梢神経の種類と伝導速度
3. 10 Microneurogram により同定されたヒトの触覚受容器
3. 11 原始感覚と識別感覚:Head の2 元説
3. 12 識別感覚の中枢
4 無髄(C)線維の生理学:快楽的(hedonic)触覚
4. 1 無髄(C)線維の活動電位記録
4. 2 ヒトの触覚にかかわる無髄線維活動の記録と同定
4. 3 ヒトの触覚にかかわる無髄線維興奮の最適刺激
4. 4 有毛部の低閾値無髄線維の役割:有髄線維を失った患者での観察
4. 5 触覚を伝える低閾値無髄線維は島皮質に投射し、体性感覚野には投射しない
4. 6 GL では島皮質が厚くなり、体性感覚野が薄くなっている
4. 7 快楽的触覚を処理する脳部位は島
5 おわりに
第2章 五感と快不快
1 感覚を表すオノマトペ
2 オノマトペの音に反映される手触りの快不快
3 食べたり飲んだりした時の感覚もオノマトペの音に反映される
4 オノマトペの音に反映される手触りと味の快不快の共通性
5 オノマトペの音から感覚的印象を推定するシステム
【第II編 感覚をはかる・感覚ではかる~計測技術】
第3章 感覚のオノマトペと官能評価
1 感覚イメージとその表象
2 オノマトペによる触り心地の可視化
3 触覚オノマトペの分布図の作成
4 オノマトペ分布図と想起される素材・質感
5 オノマトペ分布図の音韻論による分析
6 オノマトペの分布図を利用した触相図の作成
7 触相図の利用法
第4章 快・不快をはかる~触覚の官能評価と物理量の関係~
1 快・不快とは
2 触覚の快・不快の決定因子の検討
3 触覚を表す言葉と触対象の系統化
3. 1 触覚を表す言葉の快・不快への分類
3. 2 触対象の系統化
4 快・不快と物理量の関係づけ
4. 1 触対象による快・不快の官能評価の特徴
4. 2 快・不快と物理量の関係
5 快・不快の物理モデル構築と妥当性評価に向けて
第5章 触覚ではかる
1 はじめに:微小面歪の検出
2 触覚コンタクトレンズ
3 Morphological Computationという視点
3.1 Morphological Computation とは
3.2 Morphological Computation としての触知覚
3.3 ゴム製人工皮膚層メカトロサンド
3.4 典型例としてのひずみゲージサンド
4 ひずみゲージサンドによる微小面歪検出
4.1 ひずみゲージサンドの基本特性
4.2 機械学習の利用
5 おわりに
第6章 視覚ではかる ―ちらつき知覚の変化に基づく簡易疲労計測技術―
1 はじめに
2 ちらつき知覚のコントラストによる変化を用いた疲労検査
3 強制選択・上下法によるちらつき知覚閾値の決定方法
4 ネットワークを用いた日常疲労計測のためのプロトタイプシステム
5 まとめ
【第III編 感覚をつくる・つかう~提示・代行技術~】
第7章 ロボットハンドへの触覚導入
1 はじめに
2 ロボットハンドで使われている触覚センサ
2. 1 光学式触覚センサ
2. 2 触覚のモダリティ
3 触覚センサを搭載したロボットハンドの応用事例
3. 1 触覚センサを使った対象物・環境認識
3. 2 触覚センサを使った物体操作
4 触覚は本当に必要か?
4. 1 触覚と行動学習
5 オープンソース触覚センサプロジェクト
第8章 感覚代行
1 はじめに
2 感覚代行研究の歴史
3 視覚に障害がある人たちへの福祉技術(視覚の代行技術)
4 聴覚に障害がある人たちへの福祉技術(聴覚の代行技術)
5 楽しみを分かちあう福祉技術
6 おわりに
【第IV編 感覚を重視したものづくり・ことづくり~生活環境設計からロボットまで~】
第9章 繊維製品における心地良さの計測技術
1 はじめに
2 心地良いと感じられる商品の開発手法
3 熱・水分特性に関する心地良さの数値化
4 肌触りに関する心地良さの数値化
5 圧力特性に関する心地良さの数値化
6 生理計測による心地良さの数値化
7 おわりに
第10章 健康と快適を目指した衣服における感性設計・評価
1 はじめに
2 熱中症リスク管理に貢献するスマート衣料の開発
2. 1 産学連携による包括的な課題解決策の提案
2. 2 実効性を担保する設計・評価サイクルの実践
3 肥満症予防を目指した運動効果促進ウェアの開発
4 高機能ウェア開発における「着心地」という障壁
第11章 感性を考慮したスキンケア化粧品設計
1 はじめに
2 感性価値の評価
3 感性価値を化粧品へ付加するために必要な処方ポイント
3.1 五感へアプローチする方法
3.1.1 視覚へのアプローチ
3.1.2 嗅覚へのアプローチ
3.1.3 触覚へのアプローチ
3.2 意識へアプローチする方法
4 おわりに
第12章 ヘアケア製品における感性設計― シャンプーのなめらかな洗いごこちを生み出す技術―
1 シャンプーの基本機能
2 シャンプーの組成
3 心地良さを感じる機能
4 なめらかな指どおりとは
5 なめらかな指どおりを生み出す技術
6 コアセルベート
7 反力積分値による毛髪すべり性測定
8 シャンプーの感性機能設計
9 今後の展望
第13 章 ユーザの特性に合わせた操作しやすいタッチパネル情報端末のGUI 設計
1 はじめに
2 ユーザの特性評価と設計への応用
2. 1 ユーザの身体寸法を考慮したGUI 設計
2. 2 画面表面での指先の滑りやすさを考慮したGUI 設計
2. 3 操作方法や手指の姿勢を考慮したGUI 設計
3 タッチパネル情報端末のアクセシビリティ
4 おわりに
第14章 柔らかいロボットの開発
1 はじめに
2 人を傷つけず、自らが壊れないロボット
2. 1 力や圧力を拡大する機構
2. 2 慣性力
2. 3 コンプライアンス性の高い関節、ロボット
2. 4 全体が柔軟な機構
3 ぬいぐるみによる屈曲機構
3. 1 素材等の選定
3. 1. 1 綿
3. 1. 2 糸
3. 1. 3 布
3. 1. 4 外皮とクッション
3. 1. 5 糸を巻き取るアクチュエータ
3. 2 糸の組み合わせと配糸
3. 3 長軸回りの回転関節
3. 4 繰り返し精度と提示可能な力の範囲
4 ぬいぐるみロボットの制御
4. 1 計測データに基づく運動学・逆運動学計算
4. 2 力制御
4. 2. 1 力計測
4. 2. 2 制御計算の分散処理
5 ぬいぐるみロボットの動作生成
5. 1 キーフレームの再生
5. 2 外界センサ入力に応じた動作生成
6 ぬいぐるみロボットの機能と性能
6. 1 運動性能と力制御の効果
6. 2 耐久性
7 今後の展望
第15章 自動車における感性設計
1 はじめに
2 布の触感
2. 1 人の皮膚特性と布の特性
2. 2 触感の主観評価
2. 3 布の触感の客観的評価に用いられる物理特性
2. 4 客観評価式
3 自動車シート用材料の触感
3. 1 試料と主観評価
3. 2 主観評価
3. 3 物理特性の測定
3. 4 主観評価結果
3. 5 物理特性と主観評価の関係
3. 6 既存式(秋冬用紳士スーツ地)の客観評価式への応用
3. 7 シート用材料の客観評価式の誘導
3. 8 評価式を用いた客観評価と主観評価との関係
3. 8. 1 秋冬用紳士スーツ地の既存式による客観評価
3. 8. 2 誘導された自動車シート用皮革の式による客観評価
4 おわりに
第16章 木材の見えの数値化と印象評価との関係
1 はじめに
2 画像解析による材面の特徴抽出
3 木質床材の外観特性の抽出と表現
3. 1 木質床材の収集
3. 2 材鑑画像の取得
3. 3 画像解析
3. 4 画像特徴量の設定
4 材面の印象評価
5 おわりに
第17章 住環境の快適条件― 温熱環境と音環境―
1 住環境の快適条件
2 住環境の温熱的快適性
3 居住空間における快適な音環境
第18章 住環境における感性設計(浴室用シャワーヘッド)
1 背景、目的
2 シャワー吐水の浴び心地に影響する心理的要因の分析
2. 1 評価形容語の抽出
2. 2 浴び心地に対する心理構造の分析
3 シャワー吐水のすすぎやすさに対する心理構造分析
3. 1 実験① すすぎやすさとすすぎ時間の関係検証
3. 2 実験② すすぎやすさの心理構造分析
3. 3 すすぎ時のシャワー水流観察
3. 4 すすぎやすさを高める心理的、物理的要因の考察
4 おわりに
第19章 認知症高齢者の「心地良さ」と環境づくり
1 はじめに
2 認知症高齢者の特徴
2.1 認知症とは
2.2 認知症の症状
2.2.1 中核症状
2.2.2 BPSD
2.3 加齢に伴う変化
3 認知症高齢者の環境づくりに関する研究
3.1 認知症高齢者の環境づくりの意義・目的
3.2 認知症高齢者への環境支援のための指針(PEAP 日本版3)
3.3 環境づくりに関する介入研究の紹介
3.3.1 事例1
3.3.2 事例2
4 おわりに
第20章 褥瘡予防寝具に求められる性能― シープスキン寝具の検討例―
1 はじめに
2 倫理的配慮
3 高齢被験者による実証実験と官能評価
4 高齢被験者から得られた仙骨部接触圧および組織血流量と官能評価の関係
5 高齢被験者の身体的特徴と仙骨部接触圧および組織血流量との関係
6 おわりに
第21章 看工融合領域におけるロボットによる心地良さへの試み
1 はじめに
2 看工融合領域
3 看工融合領域とロボット
3.1 洗髪ロボット
3.2 心地よさを評価するポイントについて(洗浄効果に着目)
4 おわりに